■.君と愛に生きる

 深夜まで営業している食事処でジェイムズと食事をした後、俺は先に店の外へ出た。暖簾を潜り抜けると昼間の暑さも忘れる程の、心地良い風が頬に当たる。ようやく一服出来ると気を緩めたその時、道の先からカップルらしき男女がこちらに歩いてきているのが見えた。

 女が男に愛想を尽かしているのは明白だ。一瞬見ただけで、その二人の行く末が手に取るように分かってしまう。恐らく数日もすれば、彼女の方が別れを切り出すだろう。なんの面白味もない推理から思考を逸らそうと、ポケットからマッチを取り出したのだが、しかし、どうにも違和感が残る。

「っもう、いいんで……ほんとうにっ」

 前言撤回だ。捜査官としての勘が日本に居るとこうも鈍ってしまうのか。俺は舌打ちして、マッチを擦る手を止めた。

 あの二人は恋人関係ではない。彼女は男から言い寄られている。そう気づいたのと同時くらいに、彼女もこちらを見た。横を付いて歩く男に不快そうな表情をしていた彼女は、やがて助けを求めるような目をしながらこちらへ駆け寄ってくる。

「す、すごい……ひさしぶりっ、元気だった?」

 彼女は上擦った声で、表情を引き攣らせながら笑みを浮かべている。ここまで来ると捜査官でなくとも、彼女の異変には気づけるだろう。

「ああ、元気だよ。そっちはどうだ?」
「っ、う、うん、元気……!」

 彼女とは全くの初対面ではあるが、この場は知り合いを装ってやる。本来ならば、この流れで抱き合ってみせるべきだろうが、ここはニッポン。俺は開きかけた腕を戻しながら、そっと彼女の肩に触れた。

「こいつは?」

 彼女が今置かれている状況を、上手く聞き出せるよう、自然な流れで尋ねれば「同じ会社の……」と彼女は言い出しづらそうに口にした。そんな俺たちを見ながら、男は怪訝そうな顔をしている。

「へぇ……名前ちゃん、この人は?」

 近くで見ると、男の瞳孔はギラリと開いており、その執念深さ、思い込みの激しさを伺わせた。

 一方の、助けを求めてきた彼女は、男と距離を取る様にじりじりと俺の方に寄ってくる。男女の揉め事に関わるなど、面倒な状況ではあるはずが、何故だろう。彼女の、怯えながらも助けを求めてきた、あの時の表情が忘れられない。

「えっと、彼、は……そのっ」
「恋人だ」

 言い淀んでいた彼女の言葉に被せるように、俺は彼女の腰を抱き、距離を縮める。当の本人はここまですることを予想していなかったのか華奢なその身体をビクつかせていたが、此処はしばらく辛抱願いたい。

「はっ、はぁ?恋人がいるなんて、俺は聞いてない、嘘に決まってるっ」

 男はそう言いつつも、目には確実に動揺の色が伺える。我々が、“久しぶり”と挨拶していたことも忘れているようだ。ならば、お前では相手にならんと、完膚なきまでに叩きのめしてしまえばいい。

「悪いな、内密にしてくれと俺が頼んだんだ。彼女に非は無い。尤も、それを知り得なかった君にも文句はないさ。ただ……」
「な、なんだよ、っ!」
「嫌がる彼女の表情一つ理解せずに、付きまとうような真似は感心しないな」

 彼は、言うならば、平均的な日本人男性。それよりも、一回りは小柄だろうか。彼の背に合わせるように屈んでやると、男の瞳がぎらついた。

 しかしそんなもの、子犬が鳴き声を上げるのと変わりはない。近づいたついでに、肩回りに付いているゴミをワザとらしく払いのけてやると、男が拳に力を入れたのが分かった。

「おや、赤井くん……?」

 その時、ガラガラ、と音を立ててジェイムズが居酒屋から出てくる。

「すみません、“長官”。偶然恋人に会えたもので、」
「っ……ちょう、かん?」

 聞き慣れない言葉に、彼女が俺の横で声を上げた。上出来だった。

「ああ、彼が“FBIの”長官。俺の上司だよ」

 そこからは、造作もなかった。かつて、ある捜査官の恋人をストーキングした奴の行方がどうなったのか。ニッポンであっても、社会的制裁を加えることなど如何に容易いか。さらには、この数分の内にプロファイリングした男の素性を明かして見せれば、男の顔色は面白い程に変化していく。

「とはいえ、冒頭の無礼は許してくれよ。君が彼女の同僚だと知らなかったんだ。せいぜいこれからも、良くしてやってほしい」

 男と彼女が、どれほど仕事で関わるのかは不明のため多少のフォローは必要だろう。実際、あの男一人くらいどうとでもしてやれるのだが、まあこれ以上面倒を起こしてくれるなよと、この辺りで手を打っておく。

「ありがとうございました!すみません、急にっ……というかFBI?!」

 彼女は深くお辞儀をしたかと思うと、表情をコロコロと変えていく。その様子に思わず息を漏らして笑うと、今度は驚いたように目を丸くしている。なんと可愛らしいのだろう。ジェイムズも彼女の様子を微笑ましく見ては、全てを察したのか目で合図を送ってきた。

「ならば赤井くん、彼女を……」
「ええ、そうさせてもらいますよ。例の件はまた」
「ああ、」

 では失礼するよと、ジェイムズは片手を上げて去って行く。状況がまるで読めていない彼女は呆然と、ジェイムズの背中を見つめていた。確かに、この一連の出来事には現実味が感じられないのかもしれない。

 俺はそんな様子の彼女に向き合うと、片手を差し出した。名前を名乗ると、彼女も慌てたようにこの手を握り、名前を教えてくれる。

「まさかFBIの方だったとは……」
「いや、構わんよ。君の勘も、なかなかやるじゃないか」
「……え?」
「恐らく、あの駅から降りて来たんだろう?それまでにいくらでも助けを求められただろうが、よりによって俺を選んだんだ。良い勘を持っているよ」

 彼女は真に受けているのか、固まったまま瞬きを繰り返していた。さすがに不審に思われてしまったかと、冗談だと白状すると、まるで花が揺れるように笑みを浮かべる。

「どう反応していいか、悩みました……っ!」
「だが、まあ半分は本気だ。その勘は信じていい」
「なんですかっ……それ……っ」

 声を漏らしながら笑顔を見せる彼女は、気丈に振る舞っているように見えたが、まだ不安が拭えていないのだろう。僅かに声は震え、瞳は揺れ動いている。

「家、近くなんだろう?良ければ送っていくよ」
「……えっ?」
「俺に、家の場所を知られるのが困るのなら、無理にとは言わんが」
「いえ!む、むしろ、ありがたいんですけど……でもどうして?」

 純粋な彼女の疑問は、核心を突いていた。何故、助けたのかと、その答えに辿り着いたのかもしれない。真っ直ぐな瞳で俺を見上げ、首を傾げる健気な姿を見ながら、俺は自然と笑みを浮かべていた。

「理由が、いるだろうか?」

 これは彼女の質問に答える様で、自問自答に近いものだったのかもしれない。思ったままにそう伝えると、彼女は小さく笑った。

「ふふっ……面白い、方ですね、赤井さん」
「自分でも不思議だよ。名前と呼んでも?」

 頬が赤く染まったような彼女の姿を見て、何かの始まりを予感する。こういうものも、悪くない。彼女が頷くのを確認すると俺は、ペースを合わせながらゆっくりと歩みを進めた。